岩手県 一関市 (いわてけん   いちのせきし)

梅が香「田むらの梅」20個&菓子器セット

「田むらの梅」は、旧一関藩主田村家十四代丕顕(ひろあき)公が、初代藩主建顕(たけあき)公の梅花を愛された雅趣を偲び、一関の名と共に田村家の名を後世に伝えるべく、当店初代小野寺主馬蔵(しゅめぞう)に命じ考案させたと伝えられております。丕顕公はこの風味、菓格をお気に召され田村の家名を冠する事を許されました。昭和3年には宮内省に献上の栄を賜りました。 主原料の梅の実、もち米(求肥の原料)、青紫蘇は地元一関産を中心に国産原料を使用しています。特に青紫蘇は畑の巡回や種の管理も行い、田むらの梅に最適な品質にこだわっております。これらの厳選素材を使い、五弁の梅花をイメージした五角形に一粒ずつ丹念に手包みしております。 梅餡のほのかな酸味と、香り高い青紫蘇の調和が一段と格調高い味わいを引き出しております。風雅な味わいは時を越えて、みちのくの銘菓として広く御推奨頂いてまいりました。青紫蘇の葉の表面にグラニュー糖をまぶした昔ながらの「伝承」と、グラニュー糖をまぶさず甘さ控えめの「献上」2種類をご用意しました。 秀衡塗は平安時代末期、当地・奥州平泉を治めていた藤原秀衡が、京より招いた職人に地元原産の漆と金をふんだんに使った器を造らせたのが起源とされています。源氏雲に有職菱文を配した意匠と色漆を使って描かれる重厚な漆絵は伝統美にあふれています。 【事業者】株式会社松栄堂

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容量
・献上田むらの梅×10個 ・伝承田むらの梅×10個 ・奥州秀衡塗菓子器×1個

もちの里、一関市

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明治三十六年、松栄堂は菓子屋として、百年以上も昔に岩手県南の街「一関市・地主町」に生まれました。当時の地主町は藩政時代からの伝統の老舗街で、初代主馬蔵は「ここで開業すれば、何とかやれるだろう」と目をつけたのだと思います。
開業の地一関では、正月以外に節分や彼岸など季節の行事にも餅をついて食べる習わしがあります。更に結婚式や葬式など改まった席では「もち本膳」を振る舞う習慣があり、多い時では年間六十日以上も餅を食べる機会があります。

田村の梅の誕生

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大正末から昭和初期の頃。当時の一関藩の当主様から「一関に名物品がないから考えてほしい」との御意向を賜ったのがきっかけです。
田村家といえば、明治維新後も一関のお殿様で通っていました。そのお殿様の御意向となれば藩命同然。
主馬蔵と大助は日本全国へ出かけ研究を重ね、色々な試行錯誤を二年以上も続けて、やっと出来上がったのが梅の実と青紫蘇の葉と餅(求肥)を素材にした今の「田むらの梅」の原型です。
お殿様は、考案したこの和菓子をお召し上がりになり「おお、これはいいな」とおっしゃったそうです。
その時、お殿様が一関藩の初代藩主・田村建顕公が梅をこよなく愛し、和歌にも詠んでいるというお話をされました。
これを聞いた主馬蔵が、お殿様に名づけ親になっていただき「田むらの梅」という名前をいただいたとのことです。

松のように栄える

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明治36年の創業以来、地域の風土や文化を活かした菓子作りを目指して参りました。
「松栄堂」という名前は、長寿と繁栄のシンボルである三界の松(岩手県旧川崎村)にあやかって、激動の時代を乗り越え、地元地域と共に末永い繁栄をという気持ちから名付けられています。
戦争や度重なる災害の中でも、暖簾と菓子作りへのこだわりを守り続けた先人たちの苦労と努力の積み重ね、そして創業期から見守り支え続けてくださった地域の皆様がなくては、今の松栄堂はありえません。

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創業から百十一年を迎え、松栄堂では五代目店主・宏眞へとバトンが渡されました。
これからも、「近きもの喜びて遠きもの来る」。
近きもの、つまり地域の皆様が「おいしさ」で喜び食し、その風評を聞いて遠くのお客様にも来ていただけるように、より一層、菓子作りに励んで参ります。

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